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小川 ヒメネス 伊藤武好/百合子・訳 プラテーロ、 この小川はすっかり干あがってしまい、 今では、そこを通ってカバーリョスの農園へ行けるのだが、 その昔の姿は、 色あせた私の古い記憶の中にものこっているんだよ。 あるときは、 在りし日のままの小川として、 牧場の古井戸のかたわらを流れ、 その岸には、 日の光を浴びたヒナゲシや、たれ下がったスモモの木が現われる。 またあるときは、 私の心の中の小川として、 何かほかのものにたとえたり、 それらと重なったりして、 実際にはありもしない、 あるかかなたの地を流れていく・・・・ 私の幼い空想は、 その小川から、 いくつかの新しい発見をしたときのよろこびで、 ほほえみかがやいたものだったよ、 プラテーロ。 太陽に向かっているアザミの花のようにね。 その小川、 つまりリャーノスの小川は、 風が歌うポプラの小さな林を通って、 サン・アントニオへ行く道を横切っている小川だったということや。 夏になると干あがるその小川を歩いていくと、 ここに出るということや、 冬になって、 あそこのポプラの木のそばでコルクの小舟を投げ入れると、 アングティアスの橋の下をくぐり、 牛の群れが通るとき 私のかくれ場所になったこのザクロの木々のところまで 流れて来るということなど・・・・ おまえはどうか知らないが、 幼い頃の空想というものは、 なんとすばらしい魅力だろうね、プラテーロ! それはみな、たのしい変化を見せながら、 遠ざかり、また近づいてくる。 心に浮かぶ幻想の絵のように、 すべてが見えたかと思うと、また見えなくなる・・・・・ そして、 人びとは人生の裏も表も眺めながら、 それでいて、なかば盲目のように歩み、 ときどき心の暗がりの中に、 人生の苦しい思い出を捨てているのだ。 あるいはまた、太陽に向かって開く花のように、 明るく照らし出された魂から詩を生み出しながら、 ふたたび思い出すこともない真実の岸辺に、 その詩をおきわすれているのだ。 (「プラテーロとわたし 春・夏」(フォア文庫)) http://www.ishii-takashi.com/cate5/ ← イシイタカシの情景画美術館 http://d.hatena.ne.jp/kohitujipatapon/20110429/p1 ← ぱせりの本の森 http://blog.livedoor.jp/eijiu/archives/51705728.html ← coffee & gallery ゑいじう Blog http://franzpeter.cocolog-nifty.com/taubenpost/2011/05/2011423-3be9.html ← Taubenpost〜歌曲雑感 http://kyokoaoyama.blog16.fc2.com/blog-entry-117.html ← ロバのプラテーロ!再会! そういえば、藤城清治さんの展覧会でもプラテーロに出逢いました。プラテーロが死んでしまった後、ヒメネスは友人が作ってくれたプラテーロの切り紙の人形をプラテーロのように大事にしていたそうです。 http://blog.goo.ne.jp/utukusiinatu/e/dbfbd6a939af4a0861eba2e7867a1a84 ← しづのをだまき |
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