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以前「女たちの肖像 友と出会う航海」(中村輝子 人文書院)のハンナ・アレントの伝記を読んで多くの人々を惹きつけたというハイデッガーの人物像とその哲学について興味を抱いたけれど、ハイデッガーの哲学とはどんなものか皆目見当がつかないでいた。 http://magnoria.at.webry.info/200707/article_6.html ←哲学者達の人物像を知りたい けれども「ムーミンの哲学」(瀬戸一夫 頸草書房)を読んでいて、ハイデッガーと彼に大きな影響を与えたというフィヒテの哲学がどんなものかおぼろげながら掴めたような気がした。 わたしたちが他の何ものでもない「わたし」であるためには、わたしではない何かが、とりわけ他者が存在しなければならない。現世におかれた人間精神は、このように、永遠の存在から完全に切り離されている。それは内容空虚な”淡い存在”でしかなく、固有の自分であろうとするそのとき、即座に無へと転落する。だからこそ、人間精神は「わたし」であるために、他者たちとともに時間の経過を生きる、現世の職分のもとにおかれたのである。これは神の恩寵にほかならない。 神とともにある永遠から「わたし」が離れ、他者たちと協働する現世のもとへ踏み出すことを、フィヒテは哲学用語で「超出」と表現している。普通は「超え出る」というと、日常生活や常識を超えることがイメージされるため、かれの表現はまったく意味不明に思える。しかし、フィヒテのこうした考え方は、さきほど解説したキリスト教信仰の基層をもとにすれば、それほど理解困難ではない。逆にこの基層を度外視して理解しようとすると、フィヒテの議論はほとんど支離滅裂で、意味不明な呪文のようにしか読めないのである。いずれにせよ、かれは他者との協働という、わたしたちの直面する現実に、人間精神が「わたし」であることをかろうじて許容するただ一つの生きる場、すなわち神の世界創造に参与する本務遂行の場という、ルター派の信仰に根差す深遠な意味を与えていた。 ・・・20世紀最大の哲学者ハイデガーは、最近の研究によると、フィヒテから絶大な影響を受けていたようである。かつては、ハイデガーの思想というと、アリストテレスの形而上および存在への意味への問いに端を発すると考えられていた。しかし、その根本では、フィヒテ哲学とキリスト教的な実存への問いがハイデガーを衝き動かしていたのである。しかも、かれが若いころに書いた論文には、堕落した近代への憎悪が危機的な論調のうちに滲み出ている。そして「存在と時間」(1927年)と題された初期の代表的な著作において、ハイデガーは存在の意味―在るということの意味―を深く追究している。 すでに見たように、フィヒテは「わたしは在る」という、この当然すぎることにどこまでもこだわった。他方、ハイデガーは、近代人によって「わたし」という嫌悪すべき個人主義に汚染された「在る」を浄化して、それがもつ本来の神聖な意味を、堕落した観点からすると、プロテスタント的な信仰がもたらした近代の病弊に対する、壮絶な闘いであったようにも思える。ハイデガーは、しかも、人間精神が「わたし」であろうとして現世の秩序形成に参与するといった、フィヒテの議論を逆転している。すなわち、たんなる私人へと堕落した者たちの赤裸々な現状をつぶさに分析し、腐敗した近代の社会に与することの不毛さを、執拗なまでに暴露しているのである。 要するに反俗・孤高ということであり、私が俗世間と何とか折り合いながら自分の生きる道を探り出して生きてきたことを思えば共感できる部分が大きいのではないかと思うのです。 |
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