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神沢利子さんには、数年前から興味を持っていたのだけれど、具体的な作品はなかなか読めなかった。けれど、最近偶然ブックオフで見つけてきた「改定 児童文学へのいざない 児童文学ハンドブック」(原昌 建帛社)を読んで、その魅力に気づくことができた。 「ちびっこカムのぼうけん」(1961)など、ストーリー性をもった童話に成功した神沢は、当時一つの疑問につきあたっている。1956年(昭和40)年3月、「日本児童文学」誌上で、 わたしは今こそ自分の出発点に帰らねばと思った。起伏のあるストーリーは勿論面白い。しかし、ここでストーリー性によりかからず、もっと端的にものの本質に迫る仕事は出来ないものか、その昔、詩を離れ、詩はもはや、とび立った小鳥のように私の掌にもどってはこない。詩をかく作業は絶望的なものになっていた。しかしそれならば幼年童話の中で、この詩に近い仕事を―と「くまの子ウーフ」でそれを試みた。 と注もくすべき発見をしている。つまり、「くまの子ウーフ」(69)で、ストーリー性を離れ、本質に迫る仕事と詩に近い仕事を試みようとしたのである。 さて、「くまの子ウーフ」や「うさぎのモコ」を支えているものは、新体験への幼い子どものおどろきに基づく感覚の世界である。これは同時に幼年童話を成立させるもっとも重要な要素でもある。幼い子どもの世界には、私たちの遠い過去に忘れてきたみずみずしい特有の感覚がある。固定観念も、既成観念もなく、幼児の心の空白のページは、新鮮なおどろきにみちあふれている。 あれ、ぼくがあるいていくと、お月さんもついてくるよ。・・・・あれ、ぼくがとまったら、お月さんもとまったよ。 (「うさぎのモコ」) これは誰もが幼いとき感じたはずの幼児特有の感覚ではなかろうか。 「ゆきがくる」と聞いたウーフは、「ねえ小鳥くんおしえてよ。ゆきってだあれ。」とたずね、小鳥がひよこだったことを知ったウーフは、「ちょうちょうさん、きみって…ひよこだったの。」とたずねる。魚に出会ったウーフは魚がねっていてもめをあけていることにおどろき、口のなかが空っぽで舌がないことにおどろく。それから水のなかにいて、「めだかって、おしっこするのかなあ」と、ウーフは自問するのである。 神沢の幼年童話は、こうした幼い子どものおどろきの感覚にみちている。そして私たちには、ここに童心のユーモアさえ感じさせる。 さらに、神沢は幼い子どものもっているアニミズムと同化性を、幼年童話のなかでうまく利用している。 川は海が大好きなんだって。・・・・川は海にいきたくて、あんなにうれしそうにかけていくのね。(「くまの子ウーフ」) またウーフは気持ちよさそうに風にふかれているブナの木になりたいと思うし、みつの好きなウーフはみつ蜂になっていたいと思うし、夏の日にすずしそうな水のなかで自由い水遊ひ!のできる魚になっていたいと思う。ここには幼児特有の心性である願望への同化がみられる。これがふしぎにもリアリティーをもちうるのは、神沢自身のもつ子どものような鋭い感覚のせいである。 ・・・・・ さて、私はこれまで「ちびっこカムのぼうけん」への「アンティ」(神沢自身の言葉)として書いたという本音と詩がいったい何であったかを探ってみた。 それはまさに、ものに対する洞察であり、幼年童話においては、幼児の心性への接近であった。そして詩的感覚を通しての「にじいろにひかる野原」「金色のまりのような月」「夕やけいろのみかん」で示されるような詩的イージの創造と、幼年童話を通してのリズムによる詩体への接近でもあった。しかも神沢は、金いろのたんぽぽやきんぽうげで表徴される、あの幼い日の「金色の時間」の再現をもしてくれたのである。 http://www.kodomoto.net/?p=73 ←kodomoto |
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