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help リーダーに追加 RSS マリリン・モンロー

<<   作成日時 : 2007/09/26 19:18   >>

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 最近、マリリン・モンローのことをとても身近に感じるようになって、図書館などでいくつか彼女に関して書かれた本を読んでみた。その中で一番彼女のことをわかってくれているなと思ったのが大岡信だった。大岡信は彼女について次のような文章を書いている。

 「バス停留所」だったか「荒馬と女」だったか、それとも「お熱いのがお好き」だったか、マリリン・モンローが安酒場のテーブルで居眠りをし、よだれをたらす短いシーンがあった。その横顔の美しさが忘れられない。モンローが死んでしまってから、よだれをたらして美しく見えるような大スターは、映画の世界から消えてしまった。
 ふしぎな柔らかさと浸透力をもった性的魅力を発散しつち、マリリンはつねに、どこでもあどけなくよだれをたらして眠れるような、発育しきっていない無邪気な非行少女といった面影をもっていて、それに出会うと、男は他愛なく武装解除させられてしまうのだ。モンローという存在には、わけもなく男のノスタルジーをそそるものがあった。グラマー女優でありながら、彼女の性的魅力は必ずしも純然たる肉体美からきたものではなかったように、私には思われる。彼女の表情にいつも一種のニュアンスを与えていたのは、何かに驚いたあとの放心に似た、じつに無防備な表情だった。喜劇女優としてもマリリン・モンローにあっては、この放心の表情はことにも有効に使われていたものだ。そういう表情のとき、彼女はグラマー女優というよりは、ロリータ的な小妖精であって、そこに男のノスタルジーは音もなく吸い込まれてしまうようであった。
 こういう女優には、ヴァンプ(妖婦)の役は不向きだ。全裸のヌード・カレンダーで売り出した彼女にとって、セックスの神秘性をちらつかせながら男を征服するヴァンプ役は、はじめから縁がなかったといってもいい。そしてこの辺に、戦後と戦前の肉体派女優の相違を示すひとつの象徴的出来事があったのかもしれない。モンローはその「あらゆる部分からセックスが放射されている」肉体を持ちつつ、つねにささやかな女の幸福―すなわち、ささやかな結婚―に憧れる可愛い女の役を演じつづけた。映画の中のみならず、現実生活でもそれを演じようとし、そのささやかな望みさえ遂げることができずに、自分を消滅させた。
 モンローはセックスが一個の「もの」として手軽に物量的に処理されるようになった一時代を代表する女優だったが、そういう時代の苦悩を、彼女自身の人生体験においてあらかじめ経験しつくした女優でもあった。その両面において、マリリン・モンローの名は永く記憶されるに値するだろう。伝記作者によると、彼女は七、八歳の時、孤児として預けられた家で、ある「紳士」に凌辱され、口留めのため5セント銅貨をつかまされた。彼女がそれを訴えた里親は、あの立派な「紳士」がそんなことをするはずがないとかえって激しく彼女を叱責した。モンローは以来死ぬまで、軽いドモリのくせが直らなかったのだという。自分がそれについて全く無智であるセックスが、にもかかわらず「もの」として金銭的に変わりうることを知ったこと、しかもそこで受けた傷を、傷として認めるのを禁じられたこと―そういう体験のくりかえしから、あの驚いたあとのような放心に表情も芽生えたのではないのだろうか。
 セックスの女優としてのマリリン・モンローの中には、現代的な物質主義の最も華やかな代弁者と、その最も悲惨な犠牲者とが、たぐい稀れな状態で結びついていた。一種の赦しの優しさにおおわれた聖性さえ、彼女のあどけない表情の中には感じられた。その表情は男の中に、牡ではなく、父親を、つねに探り求めていたように、私には思われる。

(「風の花嫁たち 古今女性群像」(大岡信 教養文庫 1987)より)
http://om-forum.org/forum/200204/index.html
http://magnoria.at.webry.info/200708/article_94.html

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