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help リーダーに追加 RSS ベルクソンは水木しげるのような人?

<<   作成日時 : 2007/08/24 23:25   >>

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 「未知なるものへの生成 ベルクソン生命哲学」(守永直幹 春秋社)には、見ることについて次のように説明されている。

 ・・・事象を見るには大きく二つのやりかたがある外から見て観察して測定することと、その内側に入り込み内観することであり。前者が知性で、後者が直観だ。ところで、ものを見るにはさしあたり眼球がないと困ってしまうが、ベルクソンは眼球が生じたからものが見えるようになったのではなく、むしろ見ることが眼球を必要としたのだ、と考える。ならば原初の生命は一体なにを見ようとしたのか。眼球の誕生以前に、科学が目をそらす生命のエランの物語が―いわば「眼球譚」(バタイユ)がある。そんな禁忌に抗し、かつて生命が見ようとしたものを再び見ようとする努力、それこそが生命の哲学にほかならない。 そもそも「見る」とはなにか。画家が風景を見るとき、武道家が相手の出かたを探るとき、たんに漫然とそれを眺めるのではない。五感を研ぎ澄まし、相手と自分を取り巻く風景の全体を考慮に入れ、それらを子細に読む。眼はカメラではない。私たちは瞼というシャッターを押すより前に聴き、感じ、匂いをかぎ、先行的な了解を持つ。受け身ではなく、相手に積極的に働きかけている。そんな切り離せない全体的な動作と、相互の暗黙的な交渉の総体こそ「見ること」である。眼球で実際に見るより前に見ることは始まっている。そこから類推するに、眼球が生まれる前から生命は何かを見ようとしていたはずだ。

・・・・。ベルクソンによれば「視界は権利的には私たちの視界の及ばぬ無数の事象に到達しうる力である」。権利的には、意識は視界を超えたあらゆる事象を見ることができる。もっともそれは「幽霊のための視覚」だと彼は付言する。現実には私たちは身体を持つ生き物で、有用な行動をすべく組織化されている。視覚は私たちが働きかけることのできる事物び限定され、その意味でそれは「運河化された視覚」だ。運河の外には大海が広がっていようが、幽霊は別として、いまだ生者たる私たちはその大海原を我が眼でまざまざと見ることはできない。

 生命をポジティブな物質で出来た実体とではなく傾向として捉えよ、とベルクソンは命ずる。無数無限の傾向(ないし動向)としての生命は眼前の物体に働きかけ、物体を前に幾つもの行動が選択可能だ。生命は自らそうした行動の可能性を思い描き、それをデッサンする。そして、そのかぎりで物体の輪郭を垣間見る。つまり何らかの物体に働きかける可能性行動こそがまさにその物体を眼に見えるものとする。眼球とはそのような可能的行動が器官というかたちに象徴されたものである。だからこそ自分の外の対象に働きかける力を持つほとんど全部の生命に眼球が見出され、おなじ程度に複雑な構造を示すのだろう。―以上がじつに大胆きわまりないベルクソンの形而上学的仮説である。
(U 潜在的なものの直観 1 直観としての知 161p〜165p)

 この文章を読んで、なぜ人によって物の見え方が違うのか、同じ物をカメラに収めてもシャッターを押す人によってカメラに映し出される映像=写真がなぜ違うのか、という今まで私がずっと思っていた疑問が解けた気がして嬉しかった。「眼球で実際に見るより前に見ることは始まっている。そこから類推するに、眼球が生まれる前から生命は何かを見ようとしていたはずだ。」「何らかの物体に働きかける可能性行動こそがまさにその物体を眼に見えるものとする。眼球とはそのような可能的行動が器官というかたちに象徴されたものである。だからこそ自分の外の対象に働きかける力を持つほとんど全部の生命に眼球が見出され、おなじ程度に複雑な構造を示すのだろう。」という部分を読んで私はルドンの石版画集「起源」(1883)の中の「おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」という作品を思い出した。
http://www.pref.mie.jp/bijutsu/hp/event/collcata/redon_apocalypse/nakatani13.htm
ルドンは友人の植物学者アルマン・クラヴォーによって古生物や微生物に関心を抱いていたし、ダーウィンの「種の起源」も読んでいる。ベルクソンはクロード・ベルナールの生命論に影響を受けているというし、その時代の生命論について少し勉強してみる必要があると思った。
 けれど私はベルクソンの哲学の歴史的意義を論じる必要はないのだし、関心があるのはベルクソンがいったいどんな人だったのかということだ。どんな本を読んだとか経歴がうんぬんということよりも、彼がどんな人生を送ったのか、どんな人だったのか、子供の時はどんな少年だったのか、そういうことを知れば、彼の哲学が生まれた理由がわかると思うのだ。ベルクソンはアリの観察をしていたというので、じゃあファーブルのような人だったのか?画仙人と呼ばれた熊谷守一のような人だったのか?(谷川徹三が尊敬していた)と考えたりする。
http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/silent.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%AE%88%E4%B8%80
そして私が注目したのは「幽霊のための視覚」という言葉。幽霊なんてことを持ち出したりそのあくまでも前向きな哲学は、もしかしたら彼は水木しげるのような人だったんじゃないかという気もしてくる。ベルクソンの難しい著作を読まされるより、ベルクソンはこういう人だったよ、ということを教えてもらったほうがずっと私には意味がある。

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