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help リーダーに追加 RSS 「言葉」抜いた大人たち 堀江敏幸 その2

<<   作成日時 : 2006/06/25 17:30   >>

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 日常を動かしている人為の事象には、流れがある。現代の生活はもう、物質的な面だけでなく精神的な側面においてさえ分業によって支えられており、ときに両者は混同されて、嫌いだから、面倒くさいから、得にならないから、みんなべつの者に丸投げしておけばいい、と考える者すら出てくる。それもまた分業と言えるかもしれないけれど、ひとつの作業と別の作業をつなぐ索の部分、過程を司る神経系統への信頼が欠落しているとも言えるだろう。
 索とはつまり、人が人に発する言葉の積み重ねであり、そのやりとりにかける時間である。時間感覚はつねに相対的なものだ。現在どんなに遅いと感じている時柄も、むかしと比較すれば速くなっているはずで、「ゆっくり」の中身にも、じつはずいぶん幅がある。速度が必要だと正当に認められている場では、それを生かせばいい。問題は、速度を出せとの命を下すまでの諸段階を、いかに慎重に運ぶかなのである。
 手間と人間は、「間」でむすばれている。手抜きは言葉抜きであり、人抜きなのだ。手と手の「間」を蔑ろにすることは、人と人との「間」を粗雑にあつかうことに等しい。そして、「間」に存在するべき人も壁も壊して、自然落下のボールしか存在しないような自己完結の状況をつくりあげているのは、残念ながらこの私自身もふくめた、すれっからしの大人たちなのである。

 好き嫌いと効率の善し悪しだけを基準にして、AからBへ、BからCへと進むべき順路で、堂々とBを省略する。もしくは、それが習いとなって、無意識のうちにはぶく。たったひとつの「間」を引いて、身勝手な投げあげ式のキャッチボールにいそしんできたばかりに、政の「劇場」から真の観客は排除され、近隣諸国との相互理解の路は閉ざされ、わが国の古典文学に名高い「姉歯の松」は枯れ果てて、身を守るべき建物の安全性が危ぶまれ、いっさいが外の世界への想像力と思いやりを欠いた「想定の範囲内」に収まっていく。それを間近で見ている子どもたちが他者へのまなざしを失い、ものごとの是非を判断するのに不可欠な時間を軽んずるようになるのは自然な成り行きだし、彼らにつけこもうとする大人たちがあとをたたないのもまた当然なのである。
 ボールは、そして言葉は、本来、誰かにむかって投げるべきものだ。だからここで、自戒をこめて言っておきたい。たとえそれがゆるやかな放物線を描き、滞空時間の長い投擲であったとしても、落ちてくるボールを辛抱づよく待ち受けて、素手で、あるいはグラブでしかと受け止め、握りを確認してからじゅうぶんな助走をつけて相手の胸もとに投げ返そう、そしてその軌跡を見失わないよう全神経を集中し、来るべき年の、あらたな日々を送っていこう、と。

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