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私は…大山定一訳が好きなのです。何というか、素直な甘さとでもいうようなものがあると思うのです。それは過剰な甘さではありません。私が初めて買ったドイツ詩集も「ドイツ抒情詩集」(大山定一編・訳 人文書院)でした。この本のあとがきで、大山定一という方が多少なりとも理解されればと思い、ここに引用しておきます。 そのとき、そのとき、わがままな感興にまかせて訳したドイツの詩を、一冊にまとめてみたのである。「ドイツ抒情詩集」と名づけたが、ただかりそめの私抄にすぎぬ。ぼくはこの集をあみながらゲオルゲ・ウォルフスケール共編の「ドイツ詞選」三巻をよみ、非常におしえられることが多かった。ゲオルゲの書物はいわゆる詞華集とはまるで類を異にしているからである。「ドイツ詞選」は見本帖ではない。ゲオルゲはきびしい眼光で、ドイツ語の詩的可能とドイツ的たましいの冒しがたい美質を取りだしていた。 ぼくはともかくゲオルゲの「ドイツ詞選」にそいながら「ドイツ抒情詩集」をあもうと考えたが、ぼくの力量がそれをゆるさぬことに気がついた。多少仕事をその方向へはこんでみた結果、いまさら自分が多力者でないことを知らされただけである。もともと詩の翻訳のごときは、甚だはかないいうに足りぬ仕事である。しかし、何事によらず、人間は多力者でなければならぬと、ぼくはつくづく感じた。 訳詩は、二流詩人の作品をただ感興のながれのままに、奔放自在に翻訳するのが、訳者としてもたのしいし、仕事のできばえからみても、かえって親しみのあるものが出来るにちがいない。一流作品はその言葉ののっぴきならぬ重量と密度で、めりめりと訳者を押しつぶしてしまう。およそ翻訳者の介在など、絶対にゆるさぬものが第一等の詩作品だろう。 ・・・・ ぼくはドイツ詩の見本帖をつくるつもりはすこしもない。ぼくは注意してドイツ詩の最も正醇なしらべを選んだつもりである。おそらくここに、ドイツの最も高い詩精神があるとぼくは考える。しかし、最も高邁の詩作品をその国語から強いて引きはなすということは、一体どういうことであるか。ぼくはつくづく自分の無力を感じた。ぜひともこの集にとらねばならぬ、すぐれた詩作品が、とうていぼくの手におえぬために、どしどし翻訳の網の目をくぐって深い海底へにげ去るのをみなければならなかった。 ぼくはこれだけをまとめて一冊の書物にするのが、せい一ぱいであった。世間には一字もドイツ語は読めぬが、ほんとうの美しい詩であれば、しっかりと手でつかみとる人間がいるにちがいない。もしこの訳詩集が、そういう人の目にとまることができたら、ぼくはこころからうれしいのである。 昭和42年12月 大 山 定 一 大山定一さんの翻訳に対する真摯な姿勢、美しい心を感じました。 |
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